大塚勇三さん逝去
2018年08月28日
2018年8月28日(火)
長い京都滞在を終え、いま、のぞみの中。
名古屋で友だちと会って、そのあと、仕事、明日福島に戻る。
フェイスブックの友だちの記事で、大塚勇三さんが亡くなったことを知った。
今までブログに何度も書いてきたが、私は大塚さんの訳した北欧児童文学に育てられた。
名張に住んでいた子供時代、母の里の大阪に行くのが楽しみで、そこには、ハイカラなセンスがあった。
いつか本のデパート連れていったるわな、と母に聞かされていて、初めて東梅田の旭屋書店に連れて行って貰ったのが小学校一年のとき。児童書売り場は四階にあった。
パラダイス、やったね。そこは。確実にアドレナリンが放出されたと思う。それまで知ってた名張の薄暗い本屋とは、全然違う、ハイカラさ、明るさ、華やかさ、文化の香り。
そしてそこで出会ったのが、アルフ・プリョイセンの『小さかスプーンおばさん』だった。
トリコ、というのはこういうのをいう。
繰り返し読み、ビョルンの挿画を真似して描き、おばさんとごていしゅの登場する創作物語を書いたりもした。
プリョイセンの次は、リンドグレーン。『やかまし村』、次いで『ピッピ』。
それらの翻訳者が、全て、大塚さんだったのだ。
この人の訳した本にハズレはない。
子ども心にもそう決めて、背表紙の大塚勇三の字をガイドに、プロイスラーの小さい魔女、小さい水の精、などを読んだ。
教科書には『スーホの白い馬』も載っていた。この話は涙無くしては読めない。
ちなみに、甥2が二年の時には音読したテープが残ってるが、これがとても可愛い。
高校三年のとき、進路に迷って大塚さんに手紙を出した。翻訳家になろうかな、と思ったりもしてたから。
大塚さんは丁寧なお返事をくださって、翻訳家は技術より先に、その国のことが好き、というのが大事です、と書いてくださった。
なくなる二年くらい前かな、子どもの本をひろめる会で、大塚さんをお呼びできないか、という話になり、会長がツテを辿って連絡をとってくれたが、もう公の場には出ていないので、という奥様のお返事だった。
大塚さん、一度お会いしたかったなあ、
本当にありがとうございました。
長い京都滞在を終え、いま、のぞみの中。
名古屋で友だちと会って、そのあと、仕事、明日福島に戻る。
フェイスブックの友だちの記事で、大塚勇三さんが亡くなったことを知った。
今までブログに何度も書いてきたが、私は大塚さんの訳した北欧児童文学に育てられた。
名張に住んでいた子供時代、母の里の大阪に行くのが楽しみで、そこには、ハイカラなセンスがあった。
いつか本のデパート連れていったるわな、と母に聞かされていて、初めて東梅田の旭屋書店に連れて行って貰ったのが小学校一年のとき。児童書売り場は四階にあった。
パラダイス、やったね。そこは。確実にアドレナリンが放出されたと思う。それまで知ってた名張の薄暗い本屋とは、全然違う、ハイカラさ、明るさ、華やかさ、文化の香り。
そしてそこで出会ったのが、アルフ・プリョイセンの『小さかスプーンおばさん』だった。
トリコ、というのはこういうのをいう。
繰り返し読み、ビョルンの挿画を真似して描き、おばさんとごていしゅの登場する創作物語を書いたりもした。
プリョイセンの次は、リンドグレーン。『やかまし村』、次いで『ピッピ』。
それらの翻訳者が、全て、大塚さんだったのだ。
この人の訳した本にハズレはない。
子ども心にもそう決めて、背表紙の大塚勇三の字をガイドに、プロイスラーの小さい魔女、小さい水の精、などを読んだ。
教科書には『スーホの白い馬』も載っていた。この話は涙無くしては読めない。
ちなみに、甥2が二年の時には音読したテープが残ってるが、これがとても可愛い。
高校三年のとき、進路に迷って大塚さんに手紙を出した。翻訳家になろうかな、と思ったりもしてたから。
大塚さんは丁寧なお返事をくださって、翻訳家は技術より先に、その国のことが好き、というのが大事です、と書いてくださった。
なくなる二年くらい前かな、子どもの本をひろめる会で、大塚さんをお呼びできないか、という話になり、会長がツテを辿って連絡をとってくれたが、もう公の場には出ていないので、という奥様のお返事だった。
大塚さん、一度お会いしたかったなあ、
本当にありがとうございました。
Posted by ボブマリ at 10:44│Comments(0)
│物語,詩